ノーベル賞の旗

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ノーベル賞授賞晩餐会の旗

 

日本の職人ワザは世界でもトップレベル。
着物の織りもしかり。
でもそれがこんなところで、こんなふうに評価され、晴れの舞台を飾っていたとは…。
年に一度のその日が、今年ももうすぐやってくる。

TVで流れるかなあ。楽しみにしているのだけれど、どうも流れないような気がする。
ノーベル賞受賞晩餐会、スウェーデン王立工科大学の学生自治会の学生が掲げて行進し、その後会場に飾られるという黄金色の旗。

この旗が日本で織られたということを友人から聞いた。たまたま見たTV番組で、この旗を織った山形の米沢織が紹介されていたのだという。なんとこの織物会社が、彼女の実家と姻戚関係にある織り屋さんであった。

いきさつというのがまたすごくて、間にはスウェーデンの染織研究家と、彼女に師事した日本の織物作家がいた。

 

「学生自治会の旗」は1903年、当時のスウェーデン国王が自治会に寄付した由緒ある旗。やまぶき色の絹織物で作られており幅1メートル、長さ2メートルほど。ノーベル賞の晩さん会などの公的行事の際、学生たちが旗を持って行進し、会場に飾る。

 製作から100年以上が経過し、老朽化が著しくなったため、王立工科大と同国のボロース大が共同プロジェクトを組み、復元作業に当たっていた。

 米沢に生地製作の話があったのは、去年1月ごろ。ボロース大で古布復元の研究を続けているクリスティーナ女史からの依頼を受け、100年前と同じような絹織りの生地を探していた織物研究家の平沢エミ子さん(静岡県伊東市)が、先染め絹織物(糸を染めてから織った絹織物)の産地として実績がある米沢に白羽の矢を立てた。

 依頼を受けた米沢側では、織物メーカーの老舗「嵐田絹織」の嵐田秀雄常務が中心となり、現地から送られてきた切手大の布片を頼りに、サンプルの分析から作業をスタート。米沢織に携わる撚糸(ねんし)、精練、染色、整理加工の各専門業者と協力し合い、わずか4カ月という短期間で、絹糸の種類が違う2種類の生地を織り上げた。

Yonezawa.info(山形新聞 2006.12.15)

 

実際の制作は10年以上も前のこと。それをTV番組で取り上げたのがちょうど一年前、友人はその再放送を観たのだろう。悠長にめぐる時間も100年を超える旗の再生物語にふさわしい。

この話が気になっていて、なんとか映像を観たいと探したら Youtube に上がっていた。番組を見てあらためて驚いた。切手代のサンプルから再生するとひとくちに言うけれど、織物と言うのはまず糸を紡がなければいけない。調べた結果が野生の繭(野蚕)糸と判明、それに撚りをかけ、染め、ようやく織り機にかける。経糸の数1万4千本。米沢の5社が総結集してこそできた職人仕事なのであった。

 

 

旗はその後、刺繍のためにエジプト(!)に送られ、関わった職人さんたちは完成形を見ていなかった。そう、通常紡いだ人も織った人も、その完成形を見ることはない。けれども、時間と手間を惜しみなく注いだ素材は、さらに人の手によって姿を変え、そして最後に人の身にまとわれ、人の手に掲げられて初めて完成形となる。

 

スウェーデンと米沢をつないだ平沢エミ子さんのブログ記事にも、旗の写真と共に、いきさつが語られていた。

平沢さんが織った布が実に美しい。興味深いのは、平沢さんが唐織など絹織物の技法を学ぶ京都にたどりつくのが、スウェーデン経由だったことだ。

 

(クリスティーナ先生の下で)お墓で発見された中国の春秋戦国時代の模様織、シルクロードから出てきた唐の時代の織り方、、、沢山のテクニックを習いました。

(正倉院の絹織物の研究では)スエーデンでは絹はあまり使われておらず、先生の手元にも絹糸がなかったので、このサンプルの経糸は麻、緯糸はウールで織りました。

シルクロードが語っているように絹の文化は東洋から生まれました。自分がその日本の絹の文化を知らないのに気づき、その後私は、京都で伝統絹織物を学んだり、日本の絹織物の世界を走り回るようになったのです。

クリスティーナ先生が「もう日本にしか残っていないから学ぶように」と助言下さった、金箔紙を織りこむ技法も練習しました。日本には地域ごとに花開いた素晴らしい絹織物の文化がありました。

絹・スエーデンと日本の架け橋(Emiko’s Vegetable Haven 2016.10.17)

 

この記事を読んで、一つの疑問が生まれた。100年前の旗はどこで織られたのだろう。最初はスウェーデンですべて作られたのかと思っていた。けれども、もしかしたら100年前も、中国か中央アジアか、どこか別の絹織物の盛んだった地域で織られ、刺繍の盛んな地に運ばれて加工されたのではないか。100年前も、遠く隔たった地域に高い技術の集積が求められたのではなかったか…。

旗の絹地を復元した織物会社は、昔は袴地を織っていたのだという。不況により高級な反物が売れなくなる上に、袴離れは着物離れより一層大きかっただろう。が、この会社、呉服から洋服地に転換をはかり、今は銀座あたりの高級紳士服(や婦人服)に優れた素材を提供している。一方、当時共に復元に取り組んだ撚糸屋さんと染屋さんは、その後廃業してしまったという。

技術は、求める人がいなくなれば失われてしまう。でも、別の形で生き延びたり、別のところに変転移転したり、復元されたりもする。京都で平沢さんが学んだ唐織も、元は中国や朝鮮半島渡来の織物の総称であり、後にそのなかのひとつの技法を日本(西陣など)で発展させたもの。糸を紡ぎ布を織るという行為は人類共通なんだもの、考えたらずっと昔から技法も文様も、グローバルに行ったり来たりしていたのだ。

 

p.s.

ところで、唐織ってなんだ? と書きながら湧いた疑問。着物にハマっていたくせにほとんど着物のことを知らない。付け焼刃だったものはとっくに剥がれ落ちている。でも、知らなかったことを新たに知るのはとても楽しい。

西陣の帯などの、あのふっくらと横糸が刺繍のように盛り上がっているやつ、あれが唐織だった。そういえば何枚か箪笥にある。明治以降ジャカード織機が導入され、それで普及版として多く織られるようになったという。おかげで、我が箪笥にも収まることが出来たという次第。

唐織について
唐織の妙
西陣織の品種

 

2 Responses

  1. ボニ

    先日母親の米寿で田舎へ帰り、なにくれと話すうちに米沢のお義兄さんの話も出てました。
    〉技術は求めれ人がいなければ失われる。
    本当にそうですね。
    今回の帰省で、螺鈿を貼った帯というものを見ました。日本には凄い和服文化が、まだ完全には失われずにありますね。

    • Ms K's

      早速のコメント、ありがとう!
      螺鈿の帯って想像がつかないわ。
      まさか糊ではったわけじゃないだろうし、貝を金箔みたいにして織ったのかな???
      底の無い世界がまだまだあるってことね。うん、すごいすごい。

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