ハンドメイドと著作権

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アニメなどの海賊版対策として国会で審議されていた著作権法の改正案、研究や忘備のためのキャプチャまで違法ダウンロードとする内容には、海賊版の被害当事者である漫画家や出版社ですら異を唱え、法案はお流れになった。

もちろん著作権は守られるべきだ。けれども保護に広い網をかけると、人の営みの重要な部分が委縮し、文化や芸術も硬直しかねない。ひとが何かをするのにも、何かをつくるのにも、模倣は必ず入り込むものだし。

そもそも既に出来ているものを「うつしとる」のは、ゼロからつくるより断然労力が少ない。専門テクニックもいらない。アレンジや発展も、スタートラインが高いと楽である。ハンドメイドの型紙も、市販品やリメイク本の付録を利用すればアマチュアでも楽勝。

でもそうやって作ったものを売ると、著作権等の違反になる場合がある。あれこれ眺めていたら、とても考えさせられる事例があった。特殊な刺繍を施した作品についてである。

Aさんは、サイトBで紹介されていたレシピで作った刺繍作品を、ハンドメイドサイトで販売していた。受賞したくらいだから、きっと優れた作品だったのだろう。ところがこのレシピ、実は全く別のCさんが考案したものだった。サイトBはCさんに断りもなくレシピを掲載していたのだ。

Aさんは作り方を問われ、自サイトでもレシピを公開してしまった。Bサイトで二次使用・商用利用OKとされていたことと、レシピを技法のひとつととらえていたこともあり、著作権には触れないと思ったのだ。それを当のCさんが目にし、クレームをつけた。

悪意はなかったとはいえ、自分が「盗作」していた(と非難された)ことがショックで、Aさんは受賞も返上し、自サイトからも関連投稿をすべて削除し、それどころかハンドメイドの制作販売もやめてしまった。同じ技法で同じモチーフでつくる以上、著作権に触れないものをつくるのは不可能だ(だから怖くてつくれない)、と(委縮そのものだなぁ)。

その決意表明のブログには、慰めや応援のコメントがたくさん入っていた。多くの人がこの極端な結論に心を痛めたのだ。CさんもAさんに、そこまでのことを求めたわけでもない。むしろ一人の作家の活躍の可能性を奪った結果に、謝罪の言葉を記している。

しかもである。Aさんが行ったことは、実は著作権違反ではない。技法やアイデアは著作権保護の対象ではないし、レシピに著作権が認められるのは、文章や作図やレイアウトに芸術的な作者固有の「表現」がある場合のみ。一般的なレシピは取説やマニュアルと同様の扱いなのである。

Cさんの非難も、モノを作って売る際のモラルを問うものであった。それでも、ここぞとばかりに出てくるバッシング輩も多かったのだろう、Aさんはモノ作りで一番大切なものを失ってしまった。つくりたい!という情熱を。

常々、オリジナルってそんなに偉いのか? 作家ってそんなに偉いのか? と思っていた。誰の作品も真似せず、どんな作品も参考にせず、もっと言えば、誰かにも何かにも微塵もインスパイアされず、己の力だけの純粋培養で作品はできるのか?

ある作家が、それまでだれもやっていない技法や表現で作品を作れば、模倣されることを覚悟したほうがよい。ピカソの作品がキュビズムになったのは、多くの人が彼が切り開いた新しい表現に続いたからだ。これを「パクるな」と保護していたら、今日のピカソの評価は違ったはずである。

シャネルはコピーを意に介さなかったという。コピーが本物を超えられるわけがないという自信と、むしろ宣伝になるという読み(偽ブランドは著作権違反ではなく、意匠権と商標権の侵害)。

アニメ作品のダウンロードがシャネルの偽バッグと違うのは、デジタルデータが完全コピーである点である。本物と同じものがただで手に入れば、当然本物は売れなくなる。シャネルのように本物と偽物の購買層が異なることもないから、作家は食えなくなり、作品は制作されなくなる。ファンにとっては不本意なことだが、アニメも消費財と思っている読者はそんなことは気にしない。

(たとえ粗悪な偽バッグであっても)違法コピーがなくならないのは、それを求める消費者がいるからであり、市場の原理に従えば、消費者のマインドが変わらない限り違法コピーはなくならないことになる。

デジタル作品に関して言えば、正規でフリーもしくは割安に作品が提供され、作家には何らかの形で正当な対価が払われるなら、様子は変わるかもしれない。あるいはダウンロードフリーにして、その際広告収入が入る仕組みをつくるとか(そんな意見を新聞で読んだ)。この時代、著作権そのものについても問いなおす必要がありそうである。

話がごちゃごちゃしてきた。芸術作品とブランドとハンドメイド、デジタル品と物品とを同列においているからだ。一般的にも、違法性と「ルール」違反の違いが意識されておらず、そこに敬意やモラルがまぜこぜで語られていたりもする。

ハンドメイド販売で著作権違反を心配している方も多いだろうから、整理してみよう。手芸本の多くには、書籍及び付属物(型紙)の無断転載や複写は著作権違反である、と記載されている。リメイク作家のサイトには、著作権は自身に帰属する、と書かれていたりする。型紙販売では、商用利用禁止としている場合もある。

それで混同するんだけれど、ハンドメイドのほとんどは実用品なので、著作権保護の対象ではない。境界のあいまいな「作品」があるにしても、実用と機能を離れた高い芸術性がなければいけないとされる。ただし近年、純粋芸術という高いハードルではなく、「作成者の個性が発揮されているか否かを検討すべき」という判例も出たりしている(下記参考①)。

つまり厳密な線引きはできず、個別に判断するしかないわけで、だから著作権に触れる「可能性がある」ということになるし、ハンドメイドサイトも「危ないことはするな」と警告しているわけだ。

ちなみにアメリカでは、機能的・実用的なハンドメイド作品自体は著作権保護の対象外だけれど、実用性から離れた装飾部分のデザインや図柄には著作権が認められているという。
参考①:手芸作品及び手芸レシピの法的保護

ハンドメイドで気を付けなければいけないのは、むしろ実用新案権と意匠権、商標権ではないのか。以下には翻案権という聞きなれない権利も出てくる。コメントと回答も参考になる。
参考②:法律違反にならないでハンドメイド品を販売するには

前記の刺繍作家Cさんは、レシピはわが子のようなもの、それがコピーされて売られていくのはいやだ、と訴えている。個人で楽しむだけなら良いけれど、それで商売されるのは許容できない、ということだ。もしこのように商用利用されるのなら、個人の方向けにレシピを公開することもできない、とまで言っている。

コンピューターのMacとWindowsでいえば、OSをフリーで公開したWindowsがシェアを獲得した。複写や模倣OKは、普及、拡散で大衆化し、保護は一部の人の占有により高級化する。どちらの路線をとるかはビジネス戦略というだけではない。誰のためにつくるのか、ということと、技術や作品は誰のものなのか、ということもある。

Cさんは技法を(レシピも?)商標登録し、本を出し、キットを販売し、講座で教え、認定制度まで設けている(家元になっちゃったのね)。Mac方式をとったわけだ。レシピも技法も一部の愛好家の間で生き続け、師範認定されれば誰かに教えることもできるだろう。ただし商品として販売はできない(ライセンス料を払えば可能かな)。

ということは、この技法を使った作品を入手するには、本や講座やキットで自作するか、Cさんの作品を購入するしかない。自分では作れないけれど欲しい、でも作家ものは高くて手が出ない、という人は永遠にこの技法でつくられたものを入手できない(シャネルほどにブランド価値が高まれば、違法コピーが出てくるかもしれないが)。

ハンドメイドが苦手な人はけっこういる。入園入学の際に求められる「お母さんの手作りバッグ(袋)」も、時間がない、ミシンがない、うまく縫えない保護者(お母さんだけにあらず)にとってはものすごい負担で、だから近所の手芸店は春先、入園入学グッズの縫い子さん募集の張り紙を出す。注文をとり、各学園学校の指定に沿って縫わせるのである。

上記の刺繍も技法が解放されていれば、Cさんほどの「芸術作品」を作る作家の他にも、汎用品や普及品を制作販売する人も出てきて、市場は賑わったかもしれない。

個人的には、デザイン性の高いものをまるごと同じに作って売るのはいただけないと思う。違法でなくても、敬意やモラルや矜持の問題として。プロなら自分のセンスで勝負しなくてどうする、とも思う。

それでも、シンプルなトップスなど、自分サイズで適当に型紙を起こしても、結局ほとんど同じような仕上がりになる。「自分で型紙を起こせないようなやつは売る資格なんかない」というプロのパタンナーがいたが、私はそうは思わない。身に着けるものはアート「作品」ではない。通園通学グッズと同様、素材を加工し、求める人に届けるのは必要な役回りだ。使えるものは使い、そこに自分らしさを加えていけばよい。

このサイトでも「レシピ」を公開している。ダウンロードフリーである。公開した時は自作の販売もしていなかったし、そもそも著作権を主張できるほど「芸術的」なものではない。それこそ機能的実用品である。ちなみに当サイトで一番アクセスが多いのはこのレシピページである。

素材の着物については、とてもオリジナルだと感じている。でもこれらの着物を織った人も染めた人も、自分を「作家」だとも思わなければ、完成品を「作品」とも考えなかっただろう。彼らの職人仕事に、その無名性に、感謝と感動と敬意を覚える。

大衆のものであった着物(=実用品)が大衆のものでなくなった今、着物の大衆化がリメイクだと思っている。だから私はむしろアンチ「作品」、アンチ「作家」。自分のことは、強いて言えば媒介者、あるいはアレンジャーか。

ほどいて何枚かの布になった着物を眺める。どうリメイクすると眠っていた着物地が目覚めるのか。頭のなかに凝ったデザインはない。着物がそうであったように、シンプルな形が一番着物が生きるような気がする。むしろ考えるのは縦横斜め&裏表。

私の目標は、オリジナルの素材の素晴らしさがよみがえり、更に、和(着物)というイメージや制約を超えた何かが生まれること。日々の暮らしに着物リメイクが当たり前の顔で溶け込んで、生き続けて、ほんの少し身に着けた人の気分が良くなったりしたら嬉しい。デザインもパターンも、そのための一手段でしかない。

それにしても、とあらためて思う。技法は誰のものだろう。アイデアは誰のものだろう。完成した「作品」は、誰のものだろう。

ものを書いたり作ったりしていて、私は自分の「作品」をわが子のようには思ったことがない。子供だって親に属する所有物ではない。作者や親の手を離れたとたん、彼らは皆独立した一個の存在になる。あるいは「みんなのもの」になったりする。

昔書いたものを読むと、自分が書いたと思えないことがある。何かに書かされたみたいに。あるいは勝手に生まれてきたみたいに。書くという、実用や機能を離れた行為においてすら、自分は媒介者だと思うのである。

 

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