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着物~ビンテージキモノ
~Kimono Remake

若いころにハマった着物、いつしか遠ざかってしまった着物、ビンテージ(アンティーク)キモノの面白さに、プロにワンピースやアロハシャツを仕立ててもらったこともあった。それもまた遠い昔のこと。

そんな忘れていたキモノリメイク熱が、ある日突然一枚の浴衣地で復活した。このたびはオリジナル&ハンドメイドでチャレンジ。一部簡単レシピも公開。[本文を読む…]

Open宣言:浴衣から始めよう

 

  • しばらく留守してました(マルタとローマに)
    11/29 2017

    しばらく留守してました(マルタとローマに)

      しばらく留守してました。 シチリアの南、チュニジアの東。すっごく小さな国なのに(4つの島を合わせて東京23区の半分)、地中海クルーズでは必ずと言っていいほど立ち寄り先になっている、その名はマルタ共和国。ついでにローマも少し。帰国してからも別件に手足頭を取られていたこともあり、管理画面さえ開けずに二週間超。   さてと。アイキャッチはここでは初めての料理写真。何を隠そう、私はまともな料理写真が撮れない。いつも写真撮るのを忘れて食べ始めてしまい、あわてて途中で食べかけを撮るはめに。この一皿もしかり。でも、料理に対しては正しいアプローチなのではないかと思っている。 少し前のこと、地元のイタリアンで隣のテーブルにタルトゥーフォ(トリュフ)、それも白トリュフのパスタが運ばれてきた。おお!ゴージャス、香りだけでも漂ってこないかしらとちら見していると、男女二人はその皿を延々写真に撮っている。むらむらとパスタに成り代わって怒りが湧いてきた。早く食えってば。のびちまうだろうが! テーブルで削って振り掛けられたせっかくのトリュフも泣いているぜ! トリュフは日本でも食べられるけれど、カルチョーフィにはまだお目にかかったことが無い。いや、カルチョーフィはありそうだけれど、ユダヤ風というのがね。アーティチョークは真ん中の芯のオリーブオイル漬けをよく前菜に食べる。あるいは、ガクを少し残してカットして、そのガクの間に詰め物をしてオーブン焼きにしたり。ガク付でゆでた場合は、ガクを一枚ずづ、芯に近いあたりをかじるようにして食べる。シチリアのモディカという町で出てきた丸ごと炭火焼アーティチョークも、手を真っ黒にしながらガクをはがし、根元を食べた。 ユダヤ風というのは、さすがに先端は切り落としているけれど、ガクの半分(三分の一?)ほどを残したまま素揚げにしたもの。味付けは塩とオリーブオイルのみ。このシンプル勝負の一品が、この度のマルタとローマの旅のベストワンであった。ガクまでバリバリと丸ごと完食。   昔からイタリアにはユダヤ人が住んでいて、今も各地にユダヤ人街が残っている。そもそもゲットー発祥の地はヴェネツィアなのだ。本島サンタルチア駅にもほど近い一角に、他の街並みよりごみごみとした、各階の天井の高さも他よりも低い、つまりそれだけ一つの建物にたくさんの家屋がおしこめられた街並みが残っている。ナチス・ムッソリーニ時代の北イタリアには絶滅収容所もあった。 ローマにもテヴェレ川近くにユダヤ人街はあって(コミュニティー形成は紀元前の古代ローマ時代にさかのぼる)、シナゴーグが博物館として一般公開されているし、ユダヤ料理のレストランは地元の人や観光客でにぎわっている。といってもローマでは周囲の街並みに溶け込んでいて、何も知らない観光客はそれとは気づかないまま通り過ぎてしまうだろうけれど。 何年か前のローマで、ユダヤ博物館に行く予定をたてていたのだが、アクシデントがあり叶わず。それでもユダヤレストランでの夕食には間に合った。3月の半ばくらいだったかな。あの時のユダヤ風カルチョーフィより、季節が良かったのか、今回食べたほうが何倍も美味しかった。 ちなみに写真の店(Ristorante Terme di Diocleziano)はホテルで教えてもらったローマ料理店で、ユダヤ料理店ではない。なので生ハムも食べられる。駅からも近いし、夕食も18:00からと、イタリアにしては貴重な日本人向けオープンタイム。ということは観光客向けの店か? と思いきや、イタリア人客の評判もまあまあ。このときは一人だったので限られた料理しか食べられず、だからまた行ってもイイかな、という店である。   旅のメイン、初めてのマルタの話しも少し。ほんとうにシチリアから目と鼻の先なのに、カラバッジョ最晩年の傑作、聖ヨハネの斬首を見るためだけにでも行きたいと思っていながら、なかなか行けなかった。やっとその気運が高まり、どうせならと6泊することにした。これくらいあればまあ満足するだろうと。ツアーではマルタはせいぜい3泊くらい。それ以上だと、たいていイタリアとの組み合わせになる。 行ってみないと分からないものだ。なんと6泊では足りなかったのだ。二か月前から予約しないと入れない地下神殿とか。この神殿、現地に行くまでさして気に留めていなかったスポット。ガイドブックは行きの機内で読む派なので、大枠は決めてはあっても、詳細は前日の夕食時にワインを飲みながら詰める。あるいは変更する。 当日券も少数ながら出るらしいとの情報があり、並ぶのを覚悟で朝一で出かけた。が、発券場所である美術館は修復によりクローズド。もっと下調べしていけよ、といつものこと。また行けってこと? と(自分に)問いかけるのもいつものこと。 マルタは地中海の歴史をぎゅ~~~っと凝縮したような島で、紀元前5000年ともいわれる巨石神殿と、なんといっても聖ヨハネ騎士団がキリスト教世界の砦として築いた中世の歴史的建築物や街並みが見ごたえがある。 古くはフェニキア人、古代ローマ人、そしてアラブ人に支配され、続いてヨーロッパキリスト教世界となり、近代はナポレオンによる二年の支配ののち1964年までイギリス配下となる。英艦隊の拠点として第二次世界大戦まで戦略的に非常に重要な島だった。 街並みは完全にヨーロッパで、教会はバロックが多い。なのに町の名前はイムディーナ(Mdina)だったりする。アラビア語のメディナ、旧市街を意味する言葉からきているのだと思う。 料理は、見かけはイタリアン(シチリア料理)で、味つけはイングリッシュっぽいと感じた。結構楽しみにしていたのだが、一番気に入ったのは、バレッタの旧市街に入ってすぐ左手にあるリビア料理のファーストフード店だった。エジプトでも食べたファラフェル(そら豆のコロッケ)のセットが、安くて、ボリュームたっぷりで、美味しかった。いっそフィッシュ&チップスを試そうと思ったのだが、ちょうどよくスタンドに遭遇できず(バスの中から見つけても、用もない通りすがりの市街地じゃ降りるわけにもいかないし)。 海は最高にきれいで、人はのんびりと素朴で(ただしバレッタの老舗カフェ店員などはちと異なるが)、物価は安くて、選んだホテル二箇所も当たりで、これで料理の一人前が半量で、味付けがイタリアン、もしくはアラビックであったなら…。 と、リメイクとは全く関係のない話でした。リメイクも三着連れて行ったんだけどね。うちまだ記事にしてないのが二着、課題は撮影。マルタの写真もPCに保存したまま、整理どころかまともに見返してもいない。同行者用にセレクトしなければと思いつつ。  
  • くたくたなのにこの光沢! — くさっても泥大島の袷チュニック
    10/27 2017

    くたくたなのにこの光沢! — くさっても泥大島の袷チュニック

    つぎはぎだらけの泥大島、 ここまで大切にされた着物地を見るのは初めてで、 そのことに敬意を評してチュニックに仕立てることにした。 問題は布地がリメイクに耐える強度があるかどうか。それでキルト仕立てを思いついた。裏地を紅絹にしたら擦り切れても赤が覗いてかわいいかも。が、紅絹は洗っても洗っても色が出る。ためにし端切れを一緒に洗ったら、泥大島がうす赤くまだらに染まってしまった。 生地はたっぷりあるので、同じ泥大島を出来る限り裏にも使うことにした(一部は胴裏の白生地使用)。ステッチを入れる作業は大変だったけれど、何とかクリア。 これって、着物で言うところの袷である。着たらホンワカあったかい。 100%オリジナルデザインで、それはいいのだが、生地の斜めづかいを後悔した。やたらくたら伸びてしまうのだ。 余った端切れでスカーフも完成! このスカーフ作りが楽しかった。 このあと10月は紫縞ウールでハーフコートジャケットを縫った。11月初旬の旅行用。写真を撮る暇もないので、その話はたぶん帰国後、かな。  
  • 染め直した羽織からK’sドルーマンTブラウス
    10/22 2017

    染め直した羽織からK’sドルーマンTブラウス

    しばらく前、妹からのリクエストで、 ドルーマンTブラウスを縫った。 源氏香模様のブラウスと同じ作り方で、ちゃっちゃっちゃと夕食後に完成。 元は母の羽織である。 おまけにリボンスカーフも作成。リボンに結んでピンバッジでとめてみた。スカーフにもなる。そではゴムで絞っている。かわいいし、余分なひらひらがないぶん、邪魔にもならない。 この羽織、ほどいてみたら、他の着物と何かが違う。柔らかな筆使いで色を重ねたようなモダンな染め。縫い合わせてある部分の柄がぴったり合っている。ほどくと縫い代だけ染めがない。ということは、不要なほどきはせず、縫い合わせたまま染めているということ。つまり染め直したものなのだ。 そういえば昔、染屋さんが家に来たことがあった。母は、ほどいた着物の染め直しを頼んでいた。たとえば、私が七五三に着た着物を成人用に、とか。着物地はそれに耐える強靭さがあるってこと。日本以外で生地を染直しするところってあるのだろうか?! たぶん、無いと思う。これ、究極のリメイクじゃん…。  
  • シルクの季節は泥大島から — プロのリメイクをリメイク…
    10/19 2017

    シルクの季節は泥大島から — プロのリメイクをリメイク…

    綿麻の季節が終わり、いきなりシルク・ウールの季節となった。 20数年前、プロにマタニティー用に縫ってもらった泥大島のロングワンピースが。 お腹が元に戻って、身幅を直してもらった。 このたびのフィーバーで昔の着物リメイクを引っ張り出してみたのだが、 この泥大島が悲しいことになったいた。 点々としみのようなものがある。洗ってみたら一部白っぽい水玉模様になった。カビであった。ちゃんと洗って保管してたのに。でもずいぶん長いことしまいっぱなしだったからなあ。調べてみたら大島は糊が残っていたりして、カビが生えやすいという。メンテナンスは苦手だけれど、しっかりと着ていればその都度洗濯をするし、こんなことにはならなかったはず。 教訓:着物リメイクはちゃんと着てあげること! カビの部分は色がすっかり抜け、布の力も弱くなっている。ここに手持ちの泥大島を張り付けることを思い立った。楽勝と思いきや、一日仕事になってしまった。 ぞろぞろと長い丈を詰めるべく裾部分をカット。前あきのチュニックにリメイクするべくあちこちほどくも…、プロの丁寧な縫いが立ちはだかる。ミシンできっちりコバステッチをかけた洋服というのは、実にほどきにくい。加えて予想外だったのは大島の扱いにくさ。柔らかくなった絹は綿麻のようにはいかず、縫いテクに難ありは神経を使う。 とはいえ、なんとか思うようになったのはやれやれであった。 もうひとつプロ仕事に対して思ったこと。これは私も悪いのだが、このブラウスがイマイチ着にくい。袖山が高すぎて、腕を動かす時に若干負荷を感じるのだ。腕をおろしたままじっと動かさなければラインはきれい。でもそれで着心地が損なわれるのはいただけない。仮縫いでそこを指摘しなければいけなかった。あの頃の私はこういったことがよく解っていなかった。 この度もう少し情熱と根性があれば、袖山を低くカットしなおしてリメイクしたかったけれど、きらいな袖縫いであることからも断念。 それより気持ちは、(この作業でインスパイアされてか)プロジェクトにあげている泥大島に移ってしまった。やっぱりゼロから自分の好きなように形を作りたい。こちらの泥大島、つぎはぎだらけのくたくたなれど、模様はさらなり、光沢も素晴らしい。これほど継いだりはいだりするくらい大事にされた、その思いを受け継ぐような一枚を作りたい。と、それなりに頑張った話は別記事で…。  
  • ノーベル賞の旗
    10/16 2017

    ノーベル賞の旗

      日本の職人ワザは世界でもトップレベル。 着物の織りもしかり。 でもそれがこんなところで、こんなふうに評価され、晴れの舞台を飾っていたとは…。 年に一度のその日が、今年ももうすぐやってくる。 TVで流れるかなあ。楽しみにしているのだけれど、どうも流れないような気がする。 ノーベル賞受賞晩餐会、スウェーデン王立工科大学の学生自治会の学生が掲げて行進し、その後会場に飾られるという黄金色の旗。 この旗が日本で織られたということを友人から聞いた。たまたま見たTV番組で、この旗を織った山形の米沢織が紹介されていたのだという。なんとこの織物会社が、彼女の実家と姻戚関係にある織り屋さんであった。 いきさつというのがまたすごくて、間にはスウェーデンの染織研究家と、彼女に師事した日本の織物作家がいた。   「学生自治会の旗」は1903年、当時のスウェーデン国王が自治会に寄付した由緒ある旗。やまぶき色の絹織物で作られており幅1メートル、長さ2メートルほど。ノーベル賞の晩さん会などの公的行事の際、学生たちが旗を持って行進し、会場に飾る。  製作から100年以上が経過し、老朽化が著しくなったため、王立工科大と同国のボロース大が共同プロジェクトを組み、復元作業に当たっていた。  米沢に生地製作の話があったのは、去年1月ごろ。ボロース大で古布復元の研究を続けているクリスティーナ女史からの依頼を受け、100年前と同じような絹織りの生地を探していた織物研究家の平沢エミ子さん(静岡県伊東市)が、先染め絹織物(糸を染めてから織った絹織物)の産地として実績がある米沢に白羽の矢を立てた。  依頼を受けた米沢側では、織物メーカーの老舗「嵐田絹織」の嵐田秀雄常務が中心となり、現地から送られてきた切手大の布片を頼りに、サンプルの分析から作業をスタート。米沢織に携わる撚糸(ねんし)、精練、染色、整理加工の各専門業者と協力し合い、わずか4カ月という短期間で、絹糸の種類が違う2種類の生地を織り上げた。 —Yonezawa.info(山形新聞 2006.12.15)   実際の制作は10年以上も前のこと。それをTV番組で取り上げたのがちょうど一年前、友人はその再放送を観たのだろう。悠長にめぐる時間も100年を超える旗の再生物語にふさわしい。 この話が気になっていて、なんとか映像を観たいと探したら Youtube に上がっていた。番組を見てあらためて驚いた。切手代のサンプルから再生するとひとくちに言うけれど、織物と言うのはまず糸を紡がなければいけない。調べた結果が野生の繭(野蚕)糸と判明、それに撚りをかけ、染め、ようやく織り機にかける。経糸の数1万4千本。米沢の5社が総結集してこそできた職人仕事なのであった。     旗はその後、刺繍のためにエジプト(!)に送られ、関わった職人さんたちは完成形を見ていなかった。そう、通常紡いだ人も織った人も、その完成形を見ることはない。けれども、時間と手間を惜しみなく注いだ素材は、さらに人の手によって姿を変え、そして最後に人の身にまとわれ、人の手に掲げられて初めて完成形となる。   スウェーデンと米沢をつないだ平沢エミ子さんのブログ記事にも、旗の写真と共に、いきさつが語られていた。 平沢さんが織った布が実に美しい。興味深いのは、平沢さんが唐織など絹織物の技法を学ぶ京都にたどりつくのが、スウェーデン経由だったことだ。   (クリスティーナ先生の下で)お墓で発見された中国の春秋戦国時代の模様織、シルクロードから出てきた唐の時代の織り方、、、沢山のテクニックを習いました。 (正倉院の絹織物の研究では)スエーデンでは絹はあまり使われておらず、先生の手元にも絹糸がなかったので、このサンプルの経糸は麻、緯糸はウールで織りました。 シルクロードが語っているように絹の文化は東洋から生まれました。自分がその日本の絹の文化を知らないのに気づき、その後私は、京都で伝統絹織物を学んだり、日本の絹織物の世界を走り回るようになったのです。 クリスティーナ先生が「もう日本にしか残っていないから学ぶように」と助言下さった、金箔紙を織りこむ技法も練習しました。日本には地域ごとに花開いた素晴らしい絹織物の文化がありました。 — 絹・スエーデンと日本の架け橋(Emiko’s Vegetable Haven 2016.10.17)   この記事を読んで、一つの疑問が生まれた。100年前の旗はどこで織られたのだろう。最初はスウェーデンですべて作られたのかと思っていた。けれども、もしかしたら100年前も、中国か中央アジアか、どこか別の絹織物の盛んだった地域で織られ、刺繍の盛んな地に運ばれて加工されたのではないか。100年前も、遠く隔たった地域に高い技術の集積が求められたのではなかったか…。 旗の絹地を復元した織物会社は、昔は袴地を織っていたのだという。不況により高級な反物が売れなくなる上に、袴離れは着物離れより一層大きかっただろう。が、この会社、呉服から洋服地に転換をはかり、今は銀座あたりの高級紳士服(や婦人服)に優れた素材を提供している。一方、当時共に復元に取り組んだ撚糸屋さんと染屋さんは、その後廃業してしまったという。 技術は、求める人がいなくなれば失われてしまう。でも、別の形で生き延びたり、別のところに変転移転したり、復元されたりもする。京都で平沢さんが学んだ唐織も、元は中国や朝鮮半島渡来の織物の総称であり、後にそのなかのひとつの技法を日本(西陣など)で発展させたもの。糸を紡ぎ布を織るという行為は人類共通なんだもの、考えたらずっと昔から技法も文様も、グローバルに行ったり来たりしていたのだ。   p.s. ところで、唐織ってなんだ? と書きながら湧いた疑問。着物にハマっていたくせにほとんど着物のことを知らない。付け焼刃だったものはとっくに剥がれ落ちている。でも、知らなかったことを新たに知るのはとても楽しい。 西陣の帯などの、あのふっくらと横糸が刺繍のように盛り上がっているやつ、あれが唐織だった。そういえば何枚か箪笥にある。明治以降ジャカード織機が導入され、それで普及版として多く織られるようになったという。おかげで、我が箪笥にも収まることが出来たという次第。 唐織について 唐織の妙 西陣織の品種  
  • 季節を問わずお気に入り — カーデガンみたいなはおりジャケット
    10/13 2017

    季節を問わずお気に入り — カーデガンみたいなはおりジャケット

      今夏縫ったジャケット二枚目。 「麻の縮みがポロシャツみたいになった不思議」と同じ麻の絣。 形は袖の長さ以外「出番多し、七分袖のはおりジャケット」と全く同じだけれど、 この縮み生地はニットのような風合いがあって、柔らかいラインとなる。 8、9月と同布のフレンチスリーブチュニックとのセットで大活躍であったが、 10月になっても日中夏が戻ってきたような日もあって、なかなか片づけられない。 適度な温度調節用に、ふわっとしたカーディガン風はおりものとして、 もしかしたら長期間着続けるかもしれない。 着物のままであったなら、麻はせいぜい9月半ばまでしか着ない。10月になったら袷である。絹地の裏付の着物なんて、まだまだ汗ばむこの季節に着る気になどならないのだが、着物でこの季節に単衣の麻を着ていたらものすごく浮く。こういったところも、着物が現代の日常感覚と大きくかけ離れてしまっていることのひとつだろう。 現実に合わせて変えることのできないもの、それを伝統と言うのかもしれないけれど、実際の気候気温ではなく、カレンダーの季節とのマッチングのほうが優先されるのは、良く考えたらどこかおかしい。 もともとは季節に対する繊細な感受性や、粋(いき)という日本の美意識が根っこにあってのことだとしても、これでは着物はもはや、しきたりや決まりごとの枠からはみ出すことのできない、一個の行事だ。たぶん江戸の人が今の日本に来たら、昨日までの気温じゃ平気でまだ麻の単衣を着るんじゃないか。つまり、着物が日常に必要な「着るもの」だったとしたら。   話しは変わるけれど、記事と並行してジャケットの写真を取りながら、写真撮影の難しさをしみじみと実感した。壁にハンガーばかりでは撮るほうも飽きてくる。デザインによっては服のラインがきれいに出ない。着物リメイク販売サイトやそれなりに力が入っているサイトでは、みなボディに着せている。 私みたいな縫い方、つまり既存の型紙を使わず、実際体に当てて微調整しながら縫うような縫い方をするには、本当はボディがあったほうが良い。でもなあ…。その昔洋裁をやっていた先輩からボディを譲り受けたことがあった。普段はただ邪魔なだけで、いつ処分したか記憶はないが、置いておいたのはほんの短期間だった。それに、場所を取るのに加えて、あのフォルムがあまり美しくない。 段ボールで自作しようかとも考えた。が、そんなことが出来るだろうか。粘土細工のウサギさえものすごく下手くそであったこの私が(小学生のころのはなし)。 と、手元にボディに似た形をしたものが目に留まった。ちょっと新聞紙を丸めてガムテープでくっつけ、立体感を出してみたりして。それでも平面的であるのはアイロン台だからである。が、これなら場所はとらないし、当面これで行けばいいか…。 もう一つ難しいのが家の中で撮るにふさわしい場所がないということ。某サイトでは海をバックにボディを置いていたし、素敵な蔵の前で撮影しているサイトもあった。が、がんばってどこか景色の良いところまで出かけて行ったとしても、ハンガーとアイロン台ではどうしたって絵にならない。写真が課題と最初から思ってはいたけれど、ずっと課題のまま行きそうである。  

 

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